闘いきる

6月の雨が今年は心地よく感じます。
いろんなものを、洗い流して
気持ちも少し透明に戻していってくれる気がする。

春からの疲れを
ずるずる引きずって、
風邪にしては喘息のような雰囲気になってきていたけど
ようやく落ち着いてきた。
若葉の芽吹きとは一足遅れて、私の中にも新緑の季節がやってきた。

同じ愛媛県出身で、親しくしてくれていた
バンドつばきの一色さんが、脳腫瘍のために
先月亡くなりました。

「2月に親知らず抜くんです。末には口が開くようになるでしょうから
蕎麦でもいきましょうね」
つばきの再びの活動休止を知って
一色さんの奥さんでもあり、
つばきのドラマーなおさんとメールしていたのは、1月のことだった。
大丈夫だよ、今度お蕎麦行こうねと言ってくれたので、ほっとしていた。

2月末から私は忙しくなってしまって、約束を果たせぬまま3月に入った。
仕事で四国に帰り、松山の大街道を歩いていたら
聞いたことのあるメロディーが横切った。
私は戻ってビルを見上げた。
ビジョンにはつばきが映っていた。過去のライブ映像だった。
一色さんがギターを掻き鳴らして高らかに歌っていた。
人気のない昼間の大街道に立ち尽くして、涙が出てしまった。
その一週間後だった。
一色さんが入院したと連絡があり、
徳島から夜行バスでやってきた妹と一緒に
病院へお見舞いにいった。一人で行くのが怖かった。
復活ライブのときもそうだ、あのときも妹と一緒だった。
「今日は絶対泣くのやめよう」と約束したのに、二人とも号泣していたな。

病院で、もう蕎麦を食べられる状態でないのだとわかった。
生まれて始めて取り返しのつかない後悔をしたと思った。

初めてモンスターバッシュでつばきを見たのは2004年だった。
姉と妹と私と三人で「なんか、このバンドええなあ」と顔を見合わせた。
そうして私たちはライブに行くようになった。
妹はもはや追っかけみたいになっていたな。
チャットモンチーでデビューして、生命力ツアーを一緒に回ってもらえることに
なったときの喜びといったら!!
憧れの人と一緒にツアーを回れるなんて、考えてもみなかったことだ。
「がんばれ」とか気休めみたいなことを言わないつばきの音楽にいつも救われた。

その数年後、一色さんは脳腫瘍を発症して、何回もの手術、入退院を
乗り越えてきた。私はチャットモンチー脱退とかの時期で、バタバタしていて
多分、自分のことばっかりだった。
愛媛に帰る飛行機の中で、ばったり一色さんに会った。
一色さんは、杖をついていた。
「久美ちゃん元気でな。俺は降りるの時間かかるから、先行ってええよ」
久々に会った一色さんに、私は何と声をかけたらよいかわからず
簡単な挨拶をして先に飛行機から出たのだった。

2012年、私が作家になってから、初めての展示会に一色さんがきてくれた。
何も連絡なんかはなく、記帳ノートにさりげなく、
「頑張ってるね。」って書いてくれているのを見つけて、
なんてすごい人やって思った。
それからお茶をしに行ったり蕎麦を食べに行ったりした。
初めて、その後のお互いのことを喋った。
別れるときはいつも「久美ちゃん、体にはきをつけて元気でな」と言ってくれる。
「久美ちゃんは愛媛のスターじゃもん、大丈夫よ」なんて、笑わせてくれた。
いつも前向きで、つばきの歌詞にはないようなことを言って笑って、
私はいつまでも後輩のまんまでいられた。
一色さんの曲聞いたらドキッとするのは、きっとそこには本音があるからかなと思う。
やっぱり、ずっと先輩でいてくれたんやと思う。

2015年だったかな、
つばき復活のツアーを、久々に姉妹3人で岡山へ見に行ったとき、
私は久々のライブハウスだったからか、酸欠と貧血になって途中で外にでてしまった。
終演後に楽屋へ挨拶にいったとき、一色さんが開口一番、
「久美ちゃん、途中で外出ていきよったけど、大丈夫だった?」と。
驚いた。気づいてたなんて。お客さん一人の動きを見て、そして察して心配して。
自分の体の弱音は聞いたことがない。
いつも周りの人を気遣って、しかも、気遣ってるってバレないように
ほんとうにさり気なく。それができる人だった。

2012年、SCANDALの歌詞を詩先で担当することになり、
「24時間プラスの夜明け前」という詩を作った。
曲をつけてくれるのは、なんと一色さんだった。
「久美ちゃん、歌詞が最高やねえ。流石じゃわ」
また褒められて。もう、いつも褒めてくれる。
やけど、あの歌詞にどんな気持ちで曲つけてくれたんやろうか。
辛くなかったやろうか。
お葬式のとき、思い出して、苦しくなった。
いい歌詞だって思う。曲も最高だって思う。
でも、ときに言葉は人を傷つけたりもする。

「生きていくのでしょう
春は 花ふり払ってさ
それでも 生きていくのでしょう
夏は誰かの汗の上に立ち
それでも それでも 私は生きていく」

だけど、一色さんと一緒に作れたこの曲は私の誇りです。
作詞家になって、一番のご褒美だったんです。

今年4月末、一色さんの容態は悪くなったり持ち直したりを
繰り返していた。
つばきのサポートギターの曽根さんが
夜中やけど、おいでよと言ってくれて
一色さんのお家にお邪魔することになった。
雨の中、静かに家を出てタクシーが流れてくるのを待った。
寝静まった街の中、ここにだけ、別の時間が流れているような気がした。

部屋に入ると、親しい人たちが、交代で一色さんの心臓のマッサージをしていた。
「毎日、日中はすごい数の人が来てくれているんだよ。
賑やかなのが好きだから、一色くんも喜んでいると思う」と曽根さんが言った。
みんな、疲れているのがわかったけど
病院ではなくて、ここで最後を迎えさせてあげよう、
っていう覚悟とか決心が見えた。

「一色さん、失礼しますね」
そう言って、私もマッサージリレーに少しの間参加させてもらった。
胸を押すと、ときどき口から息がフーと出た。
酸素濃度を上げる助けになるようだった。
「久美ちゃん、なかなか上手いなあ!」
曽根さんが褒めてくれる。
傍らには、一色さんとなおさんの結婚式の写真。
こんな感情を、どう説明したらいいかわからない。
親族の前で泣くわけにはいかない。
私なんかが、体に触れていいのかもわからない。
でも、みんな疲れ切っているのはわかった。
気持ちが追いつかないとか、言ってる暇もないほどに、
現実は睡眠不足とも闘っていたのだと思う。

朝になり、家を出て、どうしようもなく泣きながら駅まで歩いた。
二日後からまたしばらくは四国でのお仕事だったから、
もしかしたらこれが最後になるだろうっていうお別れをすることは、
悲しいというより、全然実感などはなく、むしろマッサージをする度に
その温みが手のひらから伝わって、積もって、混乱するばかりだった。
くたくたになりながらマッサージをし続ける友人や親族達の気持ちがわかった。
くたくたになっても、むしろそうなるまでやりきらないと
お別れなんて簡単にできるもんじゃないんだ。

だらだらと引きずって、一ヶ月が過ぎた。
ステージに立つ一色さんを思い出すのと同じくらい
ベッドで必死に息をする一色さんが脳裏に焼き付いて離れない。
胸の感覚が手にずっと残っている。
「かっこいいとこだけ覚えといてや」って一色さんは言いそうだけど。

私は、同郷の後輩というだけで、
つばきフレンズに入っていたわけでないし、月一で会っていた友人でもない。
LUNKHEADや、つばきといった、一世代上のバンドの
あんまりベタベタしないけど、切り離せない団結力みたいなものに憧れていた。
羨ましいなあとも思っていた。
多分、それを私は傍でみているのが好きだったのだろうと思う。
あの人達の逞しさの反面、高校生みたいな、媚びたりしない
気ままな繊細さが私の中のロックバンドの佇まいだ。

マッサージに答えるように一色さんが一日、また一日と
息をしていてくれたことが、どれだけ皆の支えになっただろう。
小高さんが弔事で「のりちゃん、俺ら闘い抜いたよね」と言ったのが印象的だった。
体はなくなっても、一緒に闘い抜いたあの日々があるから、
きっと前を向いていけるんですね。
私もあの数時間は、かけがえのない命の記憶です。
ステージの姿と同じくらい、必死に生きる姿を忘れません。

夜行バスで徳島からきた妹と葬儀に参列しながら、
音楽が消えないもので、残るもので良かったなあと思った。
一色さんが今までよりも、もっと近くにいる、なんて言うのは軽々しいけれど、
でも、本当にそう思う。
それは、CDを聞くといつだって、笑っている顔が思い浮かぶから。
それに、闘って闘って闘い抜いた最後の顔も思い浮かぶから。

何も恩返しをできないまま、思い返すと、可愛がってもらった記憶ばかりだ。

一色さん、ほんとに最後までかっこよかったです。
生ききったんですね。闘いきったんですね。
一ヶ月経って、私の生活はなんら変わりありません。
でも、私も私を闘い抜かないかんなって、そう思います。

4月で止まったままのカレンダーを、明日進めます。
おやすみなさい。