どうしたらこんなスケジュルールになるのさ!
ということなんだけどね。
3月は、師走よりも嵐である。
2月末、徳島は祖谷の温泉旅館で行われた
「Goodness onsen」友人が主催の
摩訶不思議な温泉フェスに出演。
前日は東京、NHKラジオのレギュラー番組「ごごラジ!」を終えて
最終便の飛行機になんとか間に合った。
うとうとしながら松山空港に到着し、
そこからローカル線に揺られながら
遥か遠く離れた実家最寄り駅に着く頃には夜もふけていた。
駅まで迎えに来てくれた父の車に大学時代と同じように何食わぬ顔で乗る。
私はいつまで子どもをやり続けるんだろうか、とふと思った。
翌朝、母親と姉、姉の三びきのおチビたちを引き連れて、いざ祖谷へ。
想像していた以上に、ゆるい。
話には聞いていたけど、ほんまに宴会場のステージだ。
いい意味で、見る方もババンババンバンバン、アビバビバビバビバである。
温泉入って、飲んで、宴会場行って。完全に温泉での正しい過ごし方なのだが
どんなテンションで臨むのが正しいか、ちょっとわからなかった。
私は、音楽フェスで朗読をする。
どう見せるのが正しいか、実は自分もよくわかってない。
目を閉じたり、体を揺すったり、よくわからないものを見る感じで見られるのも
どれも正しいのだと思う。
別に誰かに届けるためにやっているのとも、今はもう違う気がしている。
トークイベントとは気持ちが別物だ。
これは、必要な人にだけじんわり効く、
漢方薬みたいなものでいいんじゃなかと思っている。
多分、即効性はない。予期せぬ風は時に心地よいから、そういう
風になれたらいいな、とか、思っていて、あとは自分の実験の延長だ。
今回は、[.que] のカキモト君の音楽と一緒にセッションさせてもらった。
やっぱり音楽と一緒は楽しい。
それは、私の中の原始的なところが呼び覚まされるからだと思う。
一人で朗読しているときとは違う。感情と感情がぶつかり合う瞬間がある。
わーって毛穴が開いていくのがわかる。
とめらんないし、とめる必要もない。
今やりたいのは、こういうステージでの実験だ。
やさしそうに見えて、私はトゲトゲだ。
世の中になくてもいいことを堂々とやってやる。
そんな変な大人が一人くらいいたっていいはずだ。
温泉に入って、翌日は祖谷のかずら橋じゃなくて
旅館の近くにあった、てんとう虫型のトロッコに
6歳の甥っ子と乗った。
わーいわーいとはしゃいで、再び実家に帰った。
音楽フェスからのお法事だ。
祖母のお法事、久々に出られて良かったな。
お法事、お彼岸、お節句、こういう行事を全部忘れずに
毎月のように行っている、父や親戚達の生活を
私は受け継いでいけるだろうか、と思った。
ラジオに間に合うように東京の家に帰った。
3月8日9日、尾道、しまなみ海道の島々へ。
このお仕事はあまりに弾丸だったので
本来なら断るべきだったのだけれど。
どうしてもやりたかった。
なんてったって村上海賊を巡る旅だったからね!
何を隠そう私は昔からずっとずっと村上水軍の大ファンだ。
その村上水軍が今、村上海賊として、日本遺産に登録されたわけだ。
そして、能島水軍の本拠地、能島城にも上陸させてもらえることになったのだ!!
(普段は上陸させてもらえません)
芸予水域の共同企画ということで、広島と愛媛が
数いる歴女の中で私を指名してくれたのですから
いかんわけにはいかん、でしょう。
どんな旅だったかは、こちらをご覧あれ。
http://www.cinra.net/report/201703-murakamikaizoku
帰りの新幹線の中で既に声がおかしかったのだが、
疲れマックスで、私は声が出なくなっていた。
翌日はラジオ・・・
明らかに海賊疲れですな。
ごめんなさい。
ラジオで無理矢理声を出したことにより
さらに声帯を傷つけてしまい
あきまへん、全く声でまへん。
土曜は一日寝て過ごした。
からの、日曜日は、靴屋NAOTさんの3周年ライブでの朗読。
去年も共演させてもらった高野寛さん、山田稔明さんと一緒だ。
とても心強い、安心できるメンバーだ。
朝は全く声が出なかったけど、リラックスできたのか
本番には声が出るようになっていた。
お二人のライブは、穏やかだけれど、その中にいつも
世の中に向いた視点がある。
3.11の震災のこと、小沢健二さんの新譜のこと、
人を楽しませるということ、いろいろ話した。
今年も私のチャレンジ(音楽✕朗読 ほぼ即興)を受け入れてくれて
心から一緒に楽しんでくださって。
大人の気遣いと余裕が格好良かった。
そして、いつも思っていることじゃないと
ステージでは伝えられないのだろうということも学ばされた。
充実のライブからの、翌日、再び徳島へ。
今度はNHKラジオ「旅ラジ」の公開生放送を
母校の鳴門教育大学で行うということで
私はゲスト出演させてもらった。
しかも、恩師とのトークが待ち構えていた。
誰と会うよりも緊張する。
大学時代は、未熟者の無礼者だった。
よく言えば、とんがっていたということだ。
だからこそ書けた歌詞もたくさんあったけれど。
先生にも本当によく叱られていた。
叱られても叱られても「ハード」の部分がダメだから、
なかなか効き目はなかった。
馬鹿だったな、あの頃の私、ってわかったのは最近になってからだ。
久々に会った先生は、相変わらずロックで格好いい人だった。
「懐かしいね」なんてことは一言も言わずに、これからの日本のこと、
もっと宮沢賢治の研究を続けなさい(賢治の童話が卒論テーマだったので)
ということを熱心に語ってくれた。
最近、叱られるってそうそうない。
こんだけ先輩風吹かせてくれる人ってなかなかいない。
かつての恩師たちも、卒業後は皆対等な関係になってしまった気がする。
なんだろう、魔法がとけたみたいに大方の先生は普通の人間になってしまった。
そんな中で田辺先生だけは、いつまでも、私の先生でいようとしてくれる。
とてもありがたいことだし、なかなかできないことだと思う。
一見、めんどくさいおじさんに映ってしまうけれど、
そこに愛があるからできるんだと思うから。
先輩風吹かせ続けることの方が大変だと私は知っている。
田辺先生、本当にありがとうございました。
東京に帰って、翌日は「ごごラジ!」に。
田辺先生に言われた。
「ラジオもいいけれどちゃんと、君がやるべきことをやらなきゃいけないよ」
私が、今やるべきこと。
今死んだら後悔すること。
それは、わかっている。私は自分の作品をもっと出したい。
ラジオも楽しんでやりたいと思う。
でも、そうですね、先生。私も情熱は保ったまま、そろそろ大人にならなきゃな。
ラジオが終わって、翌日、長野県上田市へ向かう。
ラジオゲストにも出てくれた、画家、白井ゆみ枝さんとの
トークライブ出演であった。
彼女は、2010年から開催してきた詩と絵の展覧会「ヒトノユメ展」
での相方で、一緒に夢を追いかけ形にしてきた人だ。
クリエイター達と作ってきた、チーム「ヒトノユメ」は2013年で解散したのだが、
お互い作家として、かなり大きな4年間だったと思う。
そんな白井さんの、ヒトノユメ後最大の個展「上田全天気候展」が
上田市立美術館で2月末から開催されていた。
展覧会場での白井✕高橋のトークセッション「終わらない話」。
この展覧会を彼女は「メジャー、ファーストアルバムだな」と言っていたのが
印象的だった。
正に、動だけでなく静を入れられる余裕みたいなものと
これまでは、痛いほどにむき出しだった棘が、丁寧に隠されていた。
隠し持った棘は簡単には見せず、逆に包容で迎え入れてくれた。
これまでよりも、広がりを感じられた。そして絵というものへの愛情も感じた。
それは自分自身や周りの人々への愛の現れであるように思った。
トークセッションは相変わらず、本当に「終わらない」感じで、
唯一、子どものままで許される相手だと思った。
面白い生き方を熱心にしていきたい、そう思った。
いや、何だって熱心にやっていけば、面白い生き方になっていくだろう。
「ごごラジ!」でこの日のトークセッションのことを
聞きつけて来てくれたお客さんもすごく多かった。
普段お便りでしかコンタクトできない方たちと実際にお会いできたことは
私の小さな喜びに変わった。
まるで世界の裏側にいる人に会えたような驚きと感動だった。
私の声で、元気になると仰ってくれる人がいるならば
同じように私も力をもらっている。
お世辞でもなんでもなく、本当に。
ラジオって、秘密基地みたいでいい。
こうして、私の怒涛の3月はおわ・・・り・・じゃない。
まだまだ、もう少し続きそうだ。
春、ほんまに、私の中のいろんな灰汁もでていく季節。
わらびや、たけのこと一緒やな。
全部出しきったら、そっからは
先生との約束を果たすべく、私は篭もらねばならん。
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