ポエットリーな夜

昨日、友人のポエマー、村田活彦さんが主催の「Tokyo Poetry Clossing」に出演した。
フランスやオーストラリア、タイなど各国からポエマーが集う。
これぞZoomのすごいところで。遠いが近い。近くてやっぱり遠い。

自分の詩の中には怒りがないことに、
他の詩人たちの詩を聞いていて気づいた。
タイの場合、詩はもっと生活に近いものだそうだ。
軍事主義がまだ残っているタイ国内において、
詩やポエットリーリーディングは政治的デモンストレーションの意味でも
影響の強いものなのだと言っていた。

日本の詩の場合もそういう要素はあると思うけれど、
文学としての広がりの方がやっぱり強いかな。
私の中においてもそうだろう。
朗読とポエットリーリーディング、似ていて違うと思う。
朗読は優しいし、自分の内側のものをちらりと見せるような
そんなニュアンスかな。

何を見て生きるかで、表現は変わる。
私は私なんだと言い聞かせながらも、
彼らのパフォーマンスはほとばしる生のエネルギーがあった。
それはパフォーマンスではなく、魂から出る言葉だ。
例えば自分のルーツとか、虐げられた過去だとか、
その歴史の重みや、置かれた現状を訴える。
それをリズミカルにパフォーマンスに昇華させている強さ。
より深く心に刺さる。圧巻だったよ。
怒りを怒りのままにぶつけても、人には届かないことを
きっと、誰よりも知っているのだと思う。
それでもいいはずなのに、届けるために言葉を磨いてきたのだと思う。
使命があってやっていることなのだと思った。
そこが圧倒的に私の”朗読”とは違うところなのだと知る。

私は何のために書くのだろう。リーディングするのだろう。
誰かのためではなくかつての自分に向けて書いているのかもしれない。
いや、もはや、何かのためなどではない。
ただそこにある現象の不思議や、生きる気付きを
書いているだけなのかもしれない。

さっきまで夫と夕飯を食べた台所や
道を行く誰かの淋しげな後ろ姿や
子どもたちのいなくなった公園を見ていると、
言葉になどせずとも、その現象事態が詩であると
最近はそう思う。
どこにもここにも詩が転がっている。
それを、書くかどうかは私次第なんだろう。

詩の中に住みはじめると、書かなくてもいいような
そんな気もしている。
書くことが間に合わない。