みかんと私


「新春みかんの会vol.2」が無事終わった。

今年で二回目。
我が家の無農薬みかんを使って
おやつ屋、dans la nature の千葉さんが お菓子にしてくれ
食べ物について、日々の生活について、そこから生まれる言葉や物について考える。
今年はOZマガジンさんも「ていねいSHARE PROJECT」の企画の一つとして参加してくれた。(来月号に会の模様が掲載されます)

終わってからも丁寧に生きることを考えていたのだけれど、
よく考えると、大学時代とかはけっこう雑な生活もしてきたわけで。
今も朝方まで起きたりするし。飲み過ぎて正月からぶっ倒れたりもするし。
カップラーメン食べることも年に2回くらいはあるし。

ただ、誰かがこれを作ってくれたんだな
という、物を通しての熱や優しさみたいのを感じて生活してたいと
思うようになってきていると思う。

使い捨てできるものより、長い間、愛着を持って使いたいものを買う
相手の喜ぶ顔を想像しながら選ぶ
受け継がれてきたものを大事に次の代まで残そうとか
土地の良さ、季節を感じて生活しようとか
幼稚園の頃に自然にできていたことが、
一周りして、また確信を持ってできるようになってきたということなんだ。

ものすごい情報の中に生きていて
ぼんやりしてたらひゅーんって乗っけられて流されて
ここどこだっけ?って、傷つくことになりそうな現代。
昭和時代のように、丁寧が当たり前の生活じゃない。
便利だけど不便で、簡単だけど結局難しいことで渦巻いている。
だからこそ、取捨選択できるように 
ちゃーんと責任もって選べるようにしときたいと思う。
それこそが生きること、サバイブそのものだと思う。

生活が人を作る。心も体も自分の手で守っていくしかない。
もちろん、がすがすしていた頃の自分も好きだったけどね。
良い作品もたくさん生み出せたと思うし。
けど、人は変わっていくし成長もしていく。
私の生活が成長したのは家族のお陰かもしれない。
母が無農薬で手間をかけて食べ物を育てたのは
私達の口に入るからという究極の思いがあったからだ。
31歳になった今、母のその選択に感謝しているし
自分も親なら、その道を選ぶだろうと思う。
人が人を思いながら生活することは実は簡単なことなんだ。
身近な人に置き換えてちょっとイメージするだけなんだもの。
誰が育てた牛だろう、とか、どこの国の人が作ってくれたセーターだろうとか、
どこの誰がこのみかんを食べて、そして大きくなってくれるだろうか、と。
こんなに簡単なことなのに
ジェットコースターのような日々では、なかなか気づかない
些細なことの積み重ねで人生はできていく。

丁寧は、しなやかさで、たくましさで、優しさで、生き様である。

我が家のみかんの木々はもうじき寿命である60年を迎える。