最終電車は温泉のように

今日は三本の打ち合わせのあと夜9時に出版社に行って
翻訳を担当した「パパといっしょ」の絵本に
たくさんサインをしてきました。
腹ごなしにとスーパーで編集さんたちと夕飯を買う。
納豆巻き、巻きずし、かっぱ巻き、
こういう時、私は巻物ばかり食べたくなる。
編集者さん、眠れているかな。
ちょっと疲れているかもしれぬな。
本が出たばっかりで忙しそうだもん。
原作が素晴らしいのだから、
心配しなくともヒットする。
きっと長く愛される。大丈夫、大丈夫。

今日着てたセーターは7年前に下北の古着屋で買ったやつ。
しばらく着てたけど、雰囲気に合わなくなって実家に送ったのだった。
ところが、一昨年実家に帰った時「なにこのかわいいセーター」と
私は再び持って帰って、でも一昨年は着なくて、
どうしたことか今年スマッシュヒット。
もう3日に1回くらい着ている。めっちゃ好き。
そういう自分の巡りは面白いなと思う。
残すこと、残ること。
ノートに鉛筆で書いても消しゴムでは消さないんだよ。
お蔵入りになったセーターも捨てないんだよ。
駄目だったものをなかったことにはしない。
自分が選んだものだ。
そうか、何となく選んだものなんてないからだ。
今年の私に駄目だったものは、読書と一緒で、自分の巡りに
パチっと当てはまるときがくるんだな。
そういうとき、過去の私が今の私にプレゼントをくれたのかなと思う。
ぐしゃぐしゃにしたメモからできる歌詞だってある。

お姉ちゃんが実家に眠らせていた
ヒスグラとかアルゴンキンのTシャツやセーターを
妹が尽く古着屋に出したんだそうで。
いやあ、捨てるものなんて他にいくらでもあるんだよ。
その人の一つの時代を象徴する物は、手放してほしくないと私は思う。
今は子育てに奮闘して機能的な服を選ぶ姉の、尖ってた時代の服。
歴史的に価値のある甲冑よりも、私には価値あるものに見えたよ。

今役にたつものだけが、本当に必要なものなのかな。
役に立たないものにも存在する意味があるんじゃないかな。
どうしてそう思うのか、上手く文章には書けないけど、うーん、
過去のものは今よりも未来に近いところにいる気がする。
過去から枝分かれした先に今があるから、過去はより根っこに近いということかな。
もし迷いすぎることがあったなら、昔好きだったTシャツを着てみればいい。
写真見るよりもガツンとわかることがあるよ。
自分のいいエキスが、皮膚から染み込んでいく。

私は昔からとても臆病なのだ。
妹は昔から物怖じしないのだ。
スノーボードに行っても、妹はすぐに山頂から滑り始めた。
運動神経うんぬんではなく、きっと妹には
私とは違うイメージが頭の中に湧いてきているのだ。
それがその人にとっての正しさなんだ。
何を大切にするかも大人になったらそれぞれ違ってくる。

帰りの電車の中で、全て顔の違う人間の、
今考えていることもそれぞれに違うのだと思うと、
隣に座る人と話したくなる。
朝の電車はみんな同じ顔しているけど、
最終電車は、すっかり化けの皮がはがれて
丸出しの己だ。
まるで温泉につかっているような気分になる。