「楽しい」という表現を 小学校の頃から何万回書いてきただろう。 その何割が心底楽しかったのだろう。
まあまあ楽しかったことは、綺麗さっぱり忘れていることが多い。 私の場合、辛かったことか、驚いたことか、泣くぐらい嬉しかったことしか 憶えてないことに気づいてしまった。 「楽しい」って、けっこうよく使うわりに、ぼんやりしている。 もしかしたら、生活や事柄全体を指して、やっぱりぼんやりと使っていたのかな。
楽しさの後に残る、残響は物悲しくて その悲しさの波が大きければ大きいほど 本当に楽しかったんだと思ったりする。 そういうのは殆ど終わったあとにわかる。瞬間にはわからない。
十分に楽しい日々である。 お天気雨に洗濯が濡れて 腹立たしい気持ちになることは あるけれど、 それ以外は、ほぼ楽しいの枠に入る。
家族旅行で東京に来て品プリに泊まったことや、 大好きな人にカセットテープを借りたときみたいな、 熱を出して飛んでいきそうなほどに楽しいことは、 最近じゃ、そうないけれど、 映画の感想を言い合って笑ったり、 好きな仕事をできていることも 旅に出るワクワク感だって 楽しさは、充満しすぎている。故に気づき辛い。 これは、大人になって週1でハーゲンダッツを食べられるようになった のと近いかもな(実際はそんなに食べんけどね)。
麻痺しているのかもしれない。 お祭りアイスでもあんなに嬉しかったのに。
甥っ子は、空き箱とガムテープで何にだって変身できる。 〈子どもは皆天才〉と言うが、ここまでとは。天才すぎて怖い。 同じ人間だと思うと、本当に自分がここまで輝きを失ったことを 突きつけられているみたいで愕然とする。 ティンカーベルの粉と一緒かな。 飛ぶ度にあのキラキラ落としたんかな、なんて母に話してしまった。 この段階の感性で留めることができたら、毎日がどんだけ楽しいか。
ニュースをみてもSNS開いても、 辛いことばっか飛び込んでくる。 共有の時代だ。「シェアする」「共感する」のはいいことだと思う。 けど、楽しさよりも悲しみの方ばかりシェアしちゃいがちなのは人間の性でしょうか。 「自分の」「自分サイズの」楽しみは、自分だけにしか見つけられないものだと思う。 自分の見つけた「楽しい」が欲しい。 後から思い出して、「あの頃は楽しかったな」 じゃなくて、毎日はアイスクリームで、溶けることを 気づきながら生きたい。 甥っ子みたいに、一人で黙々と熱中したい。 誰ともシェアしないで、それが「楽しさ」だとも知らずに、ただただ。
そんな自分があってこその 「シェア」が生きるってことやなあと思う。 ああ、全然まとまらないけど、 この辺で、この話は終わり。
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