隅田川


桜がこうも見事だと
見ないといけないという強迫観念に駆られてしまう。
今年も綺麗なんだと、見なくても知っている。
でも、待ち合わせしたカフェで友人の髪に花びらがついていたり
窓を開けると桜餅のような匂いが漂ってきたり、
お花見をしないやつは馬鹿だと言わんばかりに
桜は脅してくる。

トーク&サイン会ツアーも、東京、大阪、徳島、愛媛、名古屋と無事終わった。
来てくれたみなさん、ありがとう。 私の本を愛でてくれて嬉しかった。

久々に、待ってくれている人の元へ向かい続ける贅沢を味わった。
それは、思った通り幸福な時間であり、デートの朝のように、
作品を超えた生身の人間のエネルギーがひしめき合う、探りあう、
ときに共有し合うといった、思った以上に濃密な
三段重ねの花見弁当みたいな時間だった。

その結果、ツアーから帰ってきて、三日ほど魂が抜けていた。
たくさんの笑顔や優しさを各地から持ち帰ることができたが、
一人で飛び回るのは初のこと。体は正直に反応する。
桜からのプレッシャーを受けながらもこたつの中でうずくまっていた。
仕方ないので友人がはまっているという「最高の離婚」というドラマを
オンデマンドで見てみる。気がついたら夜の七時だった。
ティッシュ片手に、八話まで見ていた。
カーネーション以来のはまりようだ。

近所付き合いの苦手な主人公が、天気の話をすることを勧めてきた妻に言った。
「天気がいいのなんてわかりきっているのに『天気いいですねー』って
言うなんて馬鹿らしいよ。そんな話して意味がある?何か生まれる?」

ああ、私も大学生の頃同じ事を考えていて、母にそう言ったことがある。
桜をいつから綺麗だと思い始めただろう。「天気がいいですね」なんて、
何にも生まれやしない言葉を発することに、いつからためらいを感じなくなっただろう。

何かと引き換えに何かを得ているのだなと思う。
生きていきやすいように、自分にも気づかれないように
上手く引き換え券を差し出しているのだろうと思う。
それは感性の一部かもしれない。意地かもしれない。プライドかもしれない。


外に出なけりゃと思い、久しぶりに夜、隅田川に釣りに行った。
釣り上げてやろうという気持ちもさらさらないのに、
糸を垂らしていたら、お気に入りのルアーを二つも川底に持っていかれた。
ビクビクと、2、3度魚が針を引っ張った。焦った。が、魚は逃げた。
ほっとした。

月島で、もんじゃ焼きを食べて帰った。
河原沿いに並ぶライトアップされた桜が驚くほど綺麗だった。
やっぱり桜は綺麗だと思う。今、私は桜が綺麗だと思っているのだから
それはそれでいいのだと思った。
開けた窓から心地良い風が入ってくるように幸せな気持ちになった。
近くまで行くと、感動は薄れた。
遠くから見ているのがいいんだなと思った。
色んなことを想像しながら電車に乗り、歩き、また電車に乗って帰っていると、
地球の上なのか、八丁堀なのか、川の上なのか、大阪なのか、愛媛なのか、東京なのか、
橋の上なのか、春なのか、冬なのか、 わからないまま玄関のドアを開けていた。

ポストに一通の手紙が入っていた。
大学時代の文学ゼミの恩師からだった。エッセイ集がすごく面白かったということと、
小説も楽しみにしているという激励だった。
背筋が伸びた。大学時代、先生に褒められることがあったかなと思い返す。
こんな風に文章で褒められたのは初めてかもしれないな。 
特別な手紙。通信簿みたいな。嬉しくて、何度も読み返す。
素直に、頑張りたいと思えた。
「ボンボヤージュ」と最後に書いてある。
これ、卒業式でも言ってたな。
クスっと笑う。
 
長い長い三月が終わる。