新宿の街を歩きながら、 その情報量の多さに目を白黒させる。 なんだかんだ週3回は歩いている気がするのに どうして慣れないんだろうなあ。 音楽をしていたときは渋谷まわりで飲むことが 多かったからかもしれない。 今は、出版社関係。俄然、新宿まわりで打合せが多い。
そして友達の写真展や、新宿のギャラリーなど はしごしすぎて、また心追いつかずということになる。
私の偏見かもしれないが 写真は他のアートよりも人が出るなあと思う。 話したこともない写真家さんが受付に座っていて ぐるりと作品を見て。もいちど作家さんを見る。 ほー。生き写しではないか! 隣の部屋の別の写真家の作品を見る。 ほー。これまた生き写しではないか!と。 失礼な話だけれど。
いや、その人を見たから、写真が明るく見えたり堅物に見えたりするのかもしれない。 その時点で偏見は始まっているのかもしれない。
だって、木は木だし、かわいい人はかわいい人だし それ以上を感じようと、じーっと想像力を膨らますけど ついに、被写体以上の何ものでもないことが殆どだからだ。 なのに、つい作家さんと話をしてしまい、 これはこういう出来事の後に撮ってねとか、 これはこういうストーリーがある人なんだとか聞いてしまうと 何倍にもイメージが膨らんだりして。 この「説明を聞く」という行為が良いものなのか蛇足なのか 私は考えあぐねた。ついに、写真とはアートなのか?記録なのか? とか、そんなことまで考えてしまうほどに。
何年か前に写真家のホンマタカシさんが「ニュー・ドキュメンタリー」という 写真展をしていて見に行ったのだけれど、 まさに写真を見る上での偏見みたいなところを突いた展覧会だった。
例えば、ホンマさんが撮った写真が並ぶ中に、 別の人が撮った写真が混ざっていたりする。 また、ホンマさんの娘だと思って見ていた一連の写真が 実は、娘ではなかったというのもあった。
みんな全くわからないで、良い写真だなーなんて見過ごす。 後で分かって「え!これはホンマさんのじゃない!?」 ということになるというわけだ。 結局私は、写真に何を見ていたんだ?ということになる。
ホンマタカシが撮った写真 森山大道が撮った写真 アラーキーが撮った写真 お母さんが撮った写真
「この人のだから」という目で見ている。 この前、森山大道の写真展に行ったときは、そうなることを恐れて これは大学生が撮った写真だ!と思いながら見てみた。 それでも、森山大道という手のひらから逃れることはできなかった。 第一、そんな見方ちっとも楽しくないのだ。
そういことで、結局私の考えはまとまらない。 写真ってなんだよ~。
でも写真を見るのは好きなのだ。 事実を事実として保存する報道カメラマンの集団、マグナムも好きだ。 作られた面白さを写している作品も好きだ。 写真展があれば一人新宿をプラプラ行く。
作家は、切り取りたい理由があるから撮ったのだろう。 私が思いを馳せるとしたら、レンズの向こうでこの景色を切り取ろうとした 写真家さんに対してかもしれない。
撮るのは苦手。なぜって、やっぱりそのまんまにしか撮れないから。 そりゃあ、桜は綺麗なんだから、綺麗でしょう。 そりゃあ、子どもはかわいいんだから、かわいいでしょう。 そりゃあ、雑貨屋はお洒落なんだから、お洒落でしょうよ! みたいになるんだもの。 だから、写真を撮る人のロマンを素敵だなあと思う。 やっぱり、私が気になるのはシャッターを切ったその人だ。
自分の知らない世界を見せてくれるから
という単純で素直な理由でも良いだろうか。 誰かにとっての特別を見せてもらう。 写真展のあの少し気恥ずかしく、凛とした空気が好きだ。
|