文芸誌に掲載された尾崎豊の肉筆のノートを読んだりしている。
年齢的に、尾崎豊は通ってない。
ドラマの主題歌で知ったときには、もうこの世にはいなかった。
彼を特に意識しはじめたのは一年くらい前からだ。
震災の後、どうやって音楽や現実と向き合っていけばいいのかわからなくなっていて、
そんなときにふと開いたyoutubeで 彼のライブ映像を見た。
身を削る
よく使う言葉だけど正真正銘のそれだと思った。
パソコンの中の彼は激しく消耗していた。
見ていて苦しい。毎回こんなライブしてたらボロボロだ。
でも見てしまう。だから見てしまう。
山の奥で一滴の朝露が滑り落ちるような清らかさ、
真っ直ぐすぎて壊れそうな脆さ。
見たからどうだったかと言われるとわからない。
ただ、自分をこれでもかと傷つけるように歌っている彼が、
私の心のどうしようも無いところを肯定してくれたように思う。
なぜ尾崎豊をまたこんなに思い出したかというと
太宰治の「斜陽」を読み返していて、こんな一文がでてきたからだ。
「不良とはやさしさのことではないかしら」
弟が毎日死ぬ気で酒を飲んで暮らしていることに対し、
姉である主人公が、「それならいっそ本当の不良になってしまえばいいのに」
と嘆くシーン。
彼女は「不良」ということについて考えはじめる。
「そもそも不良じゃない人間なんていないんじゃないか。彼女自身も母も不良 ではないか」と。
そして、上の一文で彼女の言葉は締めくくられる。
ハッとさせられた。「やさしさ」か。
なんとなく思っていたことを言い当てられた。
「斜陽」の弟と尾崎豊、一見何の関係もなさそうな二人だが、
狂気にも似た真っ直ぐさという点において、私はひどく心を打たれたんじゃないかと
そう思った。
桜が散って、春から夏になる。いい季節だ。
|